制作と広告とお酒と私

制作と広告とお酒と私の話をします。がんばります。

何がダメだったかを考えないから同じ失敗をする

リクルートスーツが眩しい季節ですね。

こちとら太りすぎて着れるスーツがないっちゅーねん。

 

minmin.hatenadiary.jp

 

さて、年度初めですし前回の話の続き的なナニカでも。

 

 

それ「失敗」だと思いますか?

失敗って言葉があんま良くないと思っているんですけども、

自分がやったことを失敗だと認めることありますか?

 

誤解を恐れずに言いますと、広告で失敗をすることってなかなか無いです。

というのも、失敗の定義が曖昧だったりするわけです。

 

例えば、自分が本業の広告を出稿してそれが鳴かず飛ばずだったとしても、

「まぁ、この媒体は良くなかったってことが分かったから全然良い結果!」

と言えなくはないです。

 

もちろん、自社じゃないとしても、

結局はデジタルのデータはどうやってセグメント取るかによりますから、

(データを改竄するわけでなく)どこを切り取って見るかで成功だったり失敗だったりします。

 

口八丁、というわけではないですが、もちろん、こうやって理解することや、

伝えることというのも必要なケースもあります。

 

ただ、「ダメだった」という事実から目を背け続けるのは違う話なんですね。

 

 

目を背けるから生まれる消失点

例えばですけど、ゴールデンレトリバーを描けない人は、

多分、一生ゴールデンレトリバー描けないんですよ。

もうちょっと大きく言うと、『絵を描く練習をしない人』ですかね。

 

これって、別に絵だけじゃなくて、

デザインもコーディングもコピーも全部同じだと思うんですね。

 

なんでって、「失敗した」って思ってないんだから、

結局同じままで過ごすわけじゃないですか。それって改善の余地が無いわけで。

 

「自分はできている、間違ってないんだ、これが正解なんだ」

って思うと、もう見直さないじゃないですか。

そうすると、自分の中からその能力ってもう維持か衰退しか無いわけで。

 

気が付くと消え失せていることになるんじゃなかろうか、と。

 

 

ポジティブに諦める

前もなんかのエントリで使った言葉ですが、気に入ってます。

 

「諦める」って言葉自体がネガティブじゃないですか。

なんか、自分に負けたー的な感じに聞こえちゃうんですけどね。

 

でもね、諦めていいと思ってるんです。いろんなことを。

できないことはできないし、わからないものは分からないし。

 

結局、今できないことはどう頑張ったって今できないわけです。(トートロジー

 

だから、一回諦めて認めないと、

自分が何かを失っているという事実すら、自分の中で失ってしまっているわけじゃないですか。

 

それってつまり、いつまでたっても消失点にたどり着かないイメージなんですね。

そもそも、どこが消失点なのか分かってないわけですから。

 

 

等身大の事実を認めて再構築する

「諦める」ということができると、事実にやっと目が向くと思うんです。

今まで思っていた・見ていた事実よりも、もっと等身大の事実が見える感じ。

 

結局、事実ってのは曖昧で、解釈の問題になっちゃうわけなんですね。

そうすると、見ている事実はいろんなバイアスでおっきくなったりちっちゃくなったり。

すると、まぁ、不思議な事に自分の都合の良い世界になるわけですね。

 

それはそれで幸せな世界なんですけど、それって続かないんですよね。きっと。

だから、きちんといろんなものを認めてあげることが必要なんだと思います。

 

そしたら、いろんな事実がこれまでとは違って見えるわけなんで、

また改めて再構築していけば、また消失点への距離が遠くなるかなーと思いました。

 

 

 

ものすごっくフワッフワしてますね。

岩盤浴行ってくるわ。