制作と広告とお酒と私

制作と広告とお酒と私の話をします。がんばります。

広告デザインにおいては、意志を持つこと・持たせることが大事だと思う話

目に見えるものが全てではない。
ものすごくメンタリティな話になるが、
言霊とか気とか流れとかそういうものは存在すると僕は思っている。
※別に宗教とかそういう類のものではない。

 

 

意思を持つということ

全てのヒトには意志があり、理性がある。
だから、本能とは別の意思決定機関が体には存在することになる。

この「意思」というのは、決して自分の主観の世界だけでなく、
自分の触れる世界にも伝播する。

 

 

広告デザインにおいて意思を持たないものは無価値

広告というのは情報伝播装置である。
商品やサービスを伝えることが主たる目的となる。

つまり、「伝える」ことよりも「伝わる」ことのほうが重要であり、
「作ること」自体に意味はなく、「見てもらう」ことで初めて価値が生まれる。

これは、自己満足という主観の世界を離れて、
誰かに何かを届ける義務がある。ということになる。

自分が作ったモノ・コトというのは、
誰かに何かを届ける役割を持っているということだ。

だから、広告デザインを行うときは、
「何かを届けられるデザイン」を作らないといけないということだ。

 

 

制作者の主観であれ、意思を反映させるべき

例えば、服を買う際「これ、本当に似合ってますよ」と言われて買うとき。
似合うという判断はその店員さんの主観の言葉である(本心かは別だが)

例えば、ご飯を食べる際「ここWebの評価高いけど、微妙だったよ」と言われたとき。
その人の言葉は自分の体験した主観の言葉である。

いずれにしろ、誰かの主観で語られていることであっても、
その人の信頼度などにもよってしまうのだが、聞き手の判断の基準になる。

他人の意思を自分の意思とすり合わせる感覚。

 

もちろん、マスに向けての広告の場合は多少話は変わるかもしれない。
ただ、多くの場合、聞き手側は人であり、
その人に向けて、自分の意思を届けるということになる。

こうした日常生活のやりとりと同様に、
デジタルの世界でも意思を届けられるように意図して作ることが必要だと思う。

 

 

だから、考える。考える。考える

主観というのは単一的であるが唯一のものではない。
十人いたら十人それぞれ全くの別物である。

「誰かに何かを届ける」ということであるが、
「誰に」「何を」届けるかで随分と話は変わってしまう。

別にそうしたペルソナを明確に決めろという話ではない。

ただ、惰性に・慢性に作り続けることというのは、
広告という観点からはあまりにも無価値という話でしかない。

最低限、自分の作り上げているものが、
「誰に」「何を」届けるものなのか。
それを最低限作り手側が持つべきだということだ。

そのために必要なことは考えることしかできない。
決して自分の主観と他人の主観が交わることはないからだ。

ただ、自分の主観に類似したものを持つ人は少なからずいる。
制作者の主観であれ〜と言ったのはそういう理由である。

いずれにしろ、必要なことは考える事。
「誰に」「何を」届けるものなのか。
考える事。

 

 

広告に携わる全ての人はもっと意思をもってほしい

あくまで広告デザインの話である。
もちろん、こういうこととは違う「かっこいいもの」を作る世界もある。

これも話の奔流は変わらないのだが、
まぁちょっと違うので、「広告」と捉えてもらったほうが分かりやすい。

ここまでの「広告デザイン」という言葉は、
別にPhotoshopで作るWebデザインの話だけではない。

例えば、リスティング広告も然り。DTPも然り。DMも然り。
全てにおいて、意思を反映したデザインというのは必要だと思う。
リスティング広告だとアカウント構成というほうが分かりやすいだろうか)

 

もちろん、これが全てではないと思うし、
最適解というのは自分で見つけるべきだと思う。

 

だって、この考え方すら、僕の主観の僕の意思でしかないわけだから。

 

あなたの主観では、どういう意思をもっていますか?